図書館の不思議

 図書館は太古の昔からあります。紀元前2600年には、粘土板に書かれた文書を保存する施設があったとのことですし、有名なエジプト、アレクサンドリアの図書館は、紀元前3世紀にできたそうです。
 このように、人類の歴史とともに古い図書館ですが、いくつか不思議なことがあるように感じています。
 第一の不思議は、「この世知辛い世の中で、図書館はタダなのに、なぜ利用者が低迷するのか?」です。普通、タダだと人がわんさと押し寄せるもので、図書館にある本という本がすべて貸し出されてもおかしくないはずです。しかし、実際にはそうなっていない。多くの図書館がいかにして利用者の増加を図るかに頭を痛めているようです。
本を借りても、お金と違って利息を払う必要がないし、返却期日を過ぎると怖い取立人が来るわけでもありません。それなのに、なぜ本を借りないのか。人々は、ひょっとして、借金をしてはいけないという先祖の教えを拡大解釈して、お金ばかりか本も借りてはいけないと思い込んでいるのでしょうか。
 第二の不思議は、「「本の虫」は、なぜ図書館に来ないで自宅に本をためこむのか?」です。「本の虫」とは別名「活字中毒患者」ともいわれる人々で、活字があると、読まずにはいられない性分の人々です。図書館には本がいっぱいあるわけですから、図書館と最も相性のいいのは「本の虫」のはずで、図書館は「本の虫」であふれかえるはずです。しかし、実際にはそうなっていない。
 現在の日銀総裁黒田東彦氏は高校生の頃、学校の図書館の本をすべて読んだという逸話の持ち主だそうですから、明らかに「本の虫」で、しかも図書館との相性が良かったと推察されます。高校の図書館といえば、毎月、雑誌「鉄道ファン」の写真を眺めるくらいしか利用しなかった筆者とは大違いです。
 しかし、若い頃の黒田氏は例外で、「本の虫」の多くは、図書館に来るより、どちらかというと自宅に本をあふれさせるのが好きなように思われます。夏目漱石の写真には、積み重なった本に取り囲まれているものがありますし、最近亡くなられた英文学者の渡部昇一氏のご自宅にも万巻の書籍があるそうです。フランス文学者の鹿島茂氏も本の蒐集家で、とうとう本棚の設計まで手掛けられたとのことです。筆者の尊敬するツチヤ師(週刊文春に時々登場される聖人で哲学者の土屋賢二氏とは別人とされる)も、奥様に自宅の書棚の組立を命じられて苦悩されているようです。
 第三の不思議は、「なぜ図書館は若者にあまり人気がないのか?」です。若者といえば、恋愛。現代の脳科学によると、恋愛状況にある女性の脳は、相手の男が信用できる人間かどうかに敏感になっていて、それは将来、長い時間をかけて子供を育てることを考えると、生物学的に理にかなっているそうです。
 信頼できるかどうかという観点からは、図書館で本を読む男の方が、繁華街で遊んでいる男よりよっぽどいいはず。そうであれば、図書館は、信頼できる男を求める若くて美しい女性と、それにこたえようという軽薄な男であふれかえっていてもおかしくありません。
 しかし、実際にはそうなっていない。聞くところによると、現在の公立図書館の多くは、恋愛とは無縁の中高年男に占領されています。彼らは、朝、図書館に行列をつくり、開くや否や突進。これは、日銀総裁を目指して勉強しようというわけではなく、図書館にある新聞のチラシ広告を手に入れ、どのスーパーが安いかチェックするための行動とのこと。今後は、少子高齢化対策として、図書館を中高年男から取り戻し、若者の場所に転換する必要があります。
 第四の不思議は、「なぜ図書館で本を執筆する人がいないのか?」です。多くの本や資料のある図書館は、本の執筆場所として最適なはずですが、実際にはそうなっていない。このように書くと、「マルクス大英博物館の図書室で『資本論』を執筆した」という指摘が出てくるでしょうが、マルクスはかなり例外なのではないでしょうか。筆者は、マルクス以外、図書館で本を書いたという人の話を聞いたことがないのです。(マルクスはよほど家にいづらい事情があったのでしょう。)
 第五の不思議は、「なぜ図書館には食堂が併設されていないか?」です。本を読んだり字を書いたりする作業というのは、結構エネルギーを消費するものです。「腹が減っては戦ができぬ」ですが、勉強もできません。一生懸命勉強するためには、食っては読み、食っては書きを繰り返す必要があり、図書館には食堂が併設されるべきです。しかし、実際にはそうなっていない。おなかがいっぱいだと眠くて本が読めなくなると心配してくれているのでしょうか。
 ここまで書いたところで、腹が減ったのでやめますが、このように、図書館は不思議がいっぱいあるところです。多くの学生諸君が図書館で勉強し、ここに記した謎を解き明かしてくれることを期待しています。